Far Away
statement
望遠鏡を覗き込んで見る景色はどこまでも遠く、手が届きません。
同じ時間が流れているはずなのに、どこか静止画を見ているような実感のなさ、他人の風景を覗いているような、よそよそしさ。
それはその景色が「自分がいない風景」だからかもしれません。
たくさんの丸いフレームの向こうにある、遠い風景たち。
いつか見た景色も、まだ見ぬ景色も、世界の断片として無数に広がり続けるのです。
Over there
statement
記憶の中の景色というのは、断片の情報の集まりでしかありません。
写真ならばその場に存在した情報すべてを平等に写し出しますが、人の記憶というのは、きっと気になったものや惹かれたものを中心に作られているものだと思います。人によってどこかが欠けていたり、どこかが強調されていたり、全く同じものではないのかもしれません。
私がさまざまな場所を思い出す時、その場に居た人たちの様子というのがいちばん印象に残っている気がします。鴨川に等間隔で並ぶカップル、お花見でブルーシートを広げてくつろぐ家族や友達、同じ方向へ行き来する人々…など。
人々の様子から見えてくる風景は、誰しもがどこかで一度は出会っている景色なのではないかと思います。そして白の部分に描かれているのは、見る人ひとりひとりの記憶の中にある、似ているようでそれぞれ違う景色です。
絵は一枚の絵でしかないけれども、そこにたくさんの景色が見えればと思います。
bird eyes
statement
鳥の目線で景色を見降ろしたならば、世界はいったいどんなふうに目に映るのでしょうか。
あまりにもたくさんの建物が立ち並び、どこまでも景色が続いていき、気が遠くなってしまうのではないでしょうか。
私ならば、きっと目印を付けながら飛んで行くと思います。とりあえずはあの高い木まで、次は向こうの山を目指して…などと考えながら。
ほぼ白く情報が消された俯瞰図に描かれるのは、私が思う「鳥が見た世界」です。
どこまでも静かで、遥か彼方まで続いていくような、遠くへ思いを馳せて生まれたシリーズです。